就職して初めて勤めたのは,最寄りの駅から車で30分,バスで50分ほどかかって行く,一山越えた先の山奥だった。
赴任前のあいさつに行った私を,所属長は駅まで迎えに来てくれていた。そのまま職場へ行く前に,私は所属長が決めてくれていたアパートに連れていってもらった。住処が本人の知らないうちに決められているなんて,今の時代にはまずないであろうと,改めて思う。しかし,地域住民以外の人間が借りることのできる部屋は限られていたのだ。
アパートの私の部屋は,6畳一間と3畳の板の間と小さな台所が付いていた。エアコンなんて,もちろんない。トイレもお風呂も共同だった。お風呂は,住民で順に回して行く。長風呂はできなかった。困ったのは,壁の薄さ。壁はベニヤ板だった。廊下を隔てた向かいの部屋の人の電話の話し声が筒抜けだった。しかし,そんなこともあまり苦にはならなかった。若かった。
一人暮らしを数年経て,私はなんとか大好きなカレーを作れるようになっていた。料理は下手だが,カレーだけは,なんとか人に食べさせられるかなあと思っていた。アパートの私の部屋の上には,同僚の女性がいた。たまにその部屋に行って,なんとはなしに話をしたり,一緒に食事をしたりすることがあった。ある日私は,思い切って,自分の作ったカレーの入った鍋を持って,2階へ上がっていった。彼女は,「このカレー,おいしいね!」と,おそらく本音で言ってくれた。自分の作ったものを「おいしい」と言ってもらえた初めてのことだったかもしれない。私は,その部屋で3年を過ごした。