大分は,臼杵の大仏を見に行ったことがある。考えてみればもう三十年以上前のことになった。
大学生だった私は,アルバイトで得たお金をためて,国内をあちこち訪ね歩いていた。
その時は,思い立って,新潟から九州まで,日本海沿いに在来線を乗り継いでいくことにした。どれくらい時間がかかったかは,覚えていない。時刻表を駆使して楽しんでいた。おぼろげながらに覚えているのは,南北に長い新潟県を南下していくにつれて,言葉が少しずつ関西弁に近くなっていったことだ。在来線には,地元の日常がある。方言もリアルだ。富山,石川,福井と関西弁は色濃くなっていき,京都,兵庫を過ぎて中国地方へと行くにつれ,薄まって変わっていった。
富山では,早朝に街へ魚を売りに行くらしい年配の女性たちが,大きな風呂敷包みの箱を何段にも重ねて背負って車内に乗り込み,そして降りて行った。朝は通学の高校生たちがそれぞれの制服に身を包み,それぞれの学校に近い駅で降りて行った。
車窓の暗闇の中から,少しずつ少しずつ山の輪郭が浮かび上がってくる。そのときの色を表現する言葉がない。黒でもない。紫でも青でもない。夜明け前の色だ。それが暁の色に変化し,くすんだ緑へ。そして光を浴びて圧倒的な緑に変わってくる。
その土地その土地の人々の暮らしと自然に魅了される旅だった。夜中に駅で過ごすことも,隣に座った見知らぬ人と会話することも,全て平気で,おもしろくてたまらず,怖いもの知らずだった。
この旅の先に,臼杵の大仏があった。
多くは覚えていない。
そこには,石仏を掘った古の人々を思う時間があった。